アダージオ。
右足のクッペから、パッセそして前へ伸ばしてバランスへ。手はアンバーからアンナバーをとおってアンディオール。
「まつりちゃん、だめ。左の膝が前向いているわよ。もう一度右クッペ、はじめから倍のカウントで」
阿枝のまえで、黒い五分袖レオタードからのびる両手がぱっと落ちた。ピアノは止まらない。阿枝はそのまま、右膝をゆっくり後ろに移動させて形を作った。
右のアチチュード、両手はアンオー。さきほど前の祭が注意されていた左足の踵の角度と膝の角度に注意する。そこで止まって、ゆっくり8カウント。
「しのぶちゃん、肩を下げてもう8カウント。さおこちゃんいいわよ、もう少し胸を張って左クッペにいって」
阿枝はバランスを保ったまま、視線を感じた。それはごく一瞬で、すっと逸らされる。
「アエダちゃん次にいって。ももえちゃんグラグラしないで!あと16カウントそのままね」
ゆっくりと右足を下ろす。手もゆっくりと、できるかぎり一番遠くの弧を描いてアンバーに戻っていく。
―――また、すかされた。
隣で歯を食いしばってアチチュードを保っている右隣の子信を鏡越しに見やって、阿枝はどうしようもない空白感におそわれた。子信が着けている紅色の派手なレオタードが、阿枝を挑発してきている。どうひいきめに見ても、子信のほうが阿枝よりうまかった。肩だって、阿枝のほうが妙だった。けれど講師の彩子は、いつも簡単な注意とアドバイスを与えるだけで、阿枝にむかって怒鳴ることは決してない。
左のアチチュード8カウントも終わって、青子と同じタイミングで阿枝はただ立った。8カウント遅れて、子信も両足で立って汗をぬぐう。そのまた8カウントあとに百重らも踊り終わり、最終的に皆の視線はひとり残った祭にそそがれた。
「うーむ」
左隣の青子が、独特のかわいらしい声で感嘆する。
「まつりちゃんはやっぱりすごいわあ」
完璧なまでのバランス。僅かもゆれない二の腕。おそろしい高さで保ち続ける足。彩子がやめろと言わない限り、8カウントがとっくに過ぎても、祭は何分でもその姿勢を保ち続ける。
しかも祭は子信のように歯を食いしばったりしない。いつだって凛とした睛で鏡のなかの自分と目を合わせている。阿枝には、鏡にいる自分にOKサインを求めているように見える。そのくらいの余裕が、祭にはあった。
なのに彩子は言うのだ。
「もういい、そんな目に悪いアチチュードをわたしに見せないで。明日までにそのぶらぶらの身体をどうにかしてきなさい」
冷ややかな睛で、冷酷な声で、突き放すようにそう言うのだ。
そして祭は劣らず強い。彩子に簡単に負けはしない。アチチュードをくずすと、祭は軽く腕を回して、鏡で片手アンディオールを確認しながらただ一言、「如意棒にでもなるかなあ」と呟いた。
「さあ、斜め後ろへいって。ひとりずつピケで一周。三回目はシェネで三回転、出来る子はピケ二回転なさい。前の人が16カウント廻ったら出て。さ、一番は誰」
子信が右手を上げて一歩進み出て、右足タンデュのポーズを作って曲を待った。