第一章(1)



 

 教室の自分のデスクに座り、無表情で時を過ごすあかさぎは、檻の中にいるように見える。檻にしがみついたりせず、懇願もせず、奥のほうに悠然と立って。
あかさぎは、『かぎ』を待っているのだ。
 正確には、『かぎ』を持った『迎え』が来るのを待っている。興味を持って偽の『かぎ』を持ってやって来る者どもを眼光で追い払い、本物の『迎え』を待っている。
 でも、その『迎え』がやって来たとき、あかさぎは何の報酬をもってそれを受け入れるのだろう。


 あかさぎを初めて見た時の記憶を、津々は持っていない。どこかへ忘れてきてしまったのだ。だからよくあるように、『彼女と出会った時のことを、僕は鮮明に記憶している―――忘れることができないのだ』、だなんて、書きたいけれど書けるものではない。
 代わりに最も鮮明に津々の記憶に焼きついているのは、人ごみに立ち目だけ光らせているという、野生動物のような彼女の姿だ。あかさぎには常に『今』に立っていなかった。いつだって周りの人皆をおいていって、次なることを見つめていた。
 もちろん津々にもそれが羨ましい時期があって、少しは真似したこともあったけれど、彼女の影をわずかでも映すことはできなかった。
 本当に少しだけ―――あかさぎの中身を本当に少しだけ拾うことができたのは、どんなに想い出をひっくり返してもでてくるのはあの初夏のある日、小さな梅の飴玉を目にしていた短い時間。



 その日あかさぎは、紺色のナップザックを背負って、津々も連れてどこかへ向かっていた。常にもまして真剣だった。そして偶然、帰りの電車へ乗ろうとしたホームで、デスククラスメイトの吉日と遭遇した。
「あかさぎよねえ」
吉日は先に津々に気が付いたくせに、しっかりと無視をしてあかさぎに話しかけた。学校と違って私服で、橙の細いリボンを首と腰に巻いていて、津々にはそれが珍しかった。
「ン」
「偶然。どこへ行ったの、」
「探索をね、津々ちゃんと」
吉日はじろじろと津々を見た。
「へええ。仲が良いこと」
「お隣さんだかンね」
津々は慌ててそう言った。吉日が何を仄めかしているか、鈍感な津々にも分かった。
 あかさぎは笑った。
「それじゃ、あかさぎ、明日。ではね」
「ああ待って、キカ、いい物をあげるわ」
「ン?」
取り出したものは、小さな飴玉だった。
 あかさぎはそれを、吉日の掌にころんと転がすと、笑って言った。
「梅の、酸っぱいやつ、だってよ。さっき行ったところでもらったの」
「……ありがとう、」
吉日はそれを口に放り込んで、本当に酸っぱいわね、とか何とか言って、それからそのまま反対方向へ消えていった。
 飴玉をもらったことを、津々は知らなかった。今日誰に会いに行ったのかも、どこへ行ったのかも、何も知らなかった。津々はあかさぎについて駅まで行って、そのまま三時間待っていたのだ。その帰りだった。
 興味深げにちらちらと見ていると、それに気付いたあかさぎは、ナップザックをごそごそやりながら、
「津々ちゃんは、待ってね。移動線に乗って座ってからあげる」
明るい声でそう言った。
「座れなかったら?」
「立つつもり?あたしは、座る気まんまんだけど」
二人は、幾人かの親子連れの後ろに並んだ。
しばらくして、移動車が来た。扉が開くと、前の母親たちがいざこざを始めた。乗る順を譲り合っている。
「お先にどうぞ」
「まあ、いええ、あなたから」
「あらあ、そんなこと言わずに」
あかさぎは露骨に眉をしかめた。発車サイレンが鳴ってしまうのだ。席はすでに、両側の扉から乗った乗客で埋まっていた。
「失礼しますけど」
あかさぎは肩を張って、母親たちを押しのけて電車に乗った。津々も慌ててそれに続いた。
 発車サイレンが鳴った。
「……じゃあ、年上順ってことで」
 一人の母親が作り笑いを浮かべてさっと飛び乗った。
「まあ、冗談をおっしゃって」
「そうですよ、お若いじゃありませんか」
「ご謙遜なさって」
今度は皆我先にと慌てて飛び乗る。
 最後の母親に手を引かれた子供は、間一髪で扉にはさまれるところだった。
「……大人って不便ね、」
つり革に捕まり、肩越しに連中を見ながら、あかさぎがぼやいた。
「何事にも必ず理由が必要でさ。それもくだらないやつ。子供にとっちゃいい迷惑よね、」
「そうだね」
「……いないほうがいいわね、」
その言葉に、津々は心底ぞっとした。あかさぎの言い分はよくあるもので、別にびっくりするようなものではなかったが、その雰囲気には恐ろしいものがあった。後にも先にも、これほど強い衝撃を受けたことはなかった。



―――あかさぎは滅ぼすんだ。
―――自分が飽きたら、総てを滅ぼして、次の場所へ征ってしまう。


 家の前で別れてからすぐに、津々ははたと立ち止まった。
あの飴玉をもらっていなかった。



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