藍澤蒼子
何書いてるの?
私の質問にヤツは暫く─・・・否、ほんの少しの間かもしれないけれど、待つのが苦手な私にはそう感じた。─してから、
青写真。
ぼそっと言って、パレットとキャンパスにまた目を向けた。
アオジャシン?何それ?
未来予想図。乃至は、写真印画法。
まるで広辞苑と喋っているみたいだ。そこが気に入ったのだけれど。
ヤツと出会ったのは少し前。由衣と部活の帰りになんとなく─本当になんとなく─ふらふらと寄った画廊の人間だ。最近は『人間』でも無い気がしてきた。ただ絵を描く機械。
それを一度ヤツに言った事がある。
俺が機械?
あんた無感情じゃん?喜怒哀楽が全く。
表に出さないだけ。俺には人を憎む心がある。それで充分じゃない?
何?誰か憎んでる訳?
…あぁ、5年前からね。それは死以上の物を願うほど。
これがヤツと一番長くした会話、乃至はヤツが感情を表に出した会話だ。普段は
うん。
とか、
あっ、そう。
しか言わないヤツがそこまで喋ったので、由衣は新鮮で羨ましかったらしい。
「うそぉ、いいなぁ。私、矢津と喋ったの殆ど無いのにぃ。」
由衣はヤツを矢津と呼ぶ。それはヤツの名字が矢津だから。
ふぅ〜ん。由衣と藍ね。なんか似ているな、名前。
そ?でも、字は全然違うから。私達はなんと呼べば?
何でもいいけど。ちなみに名前は弓矢の矢に津市の津で、矢津。
由衣は素直にそれを受け入れて、以後彼を矢津と呼んでいる。
私は、ヤツの事を矢津だからなのか、奴だから呼んでいるのか解らないから、カタカナ。普段は『ねぇ』とか『あんた』で、ヤツと呼ぶのは心の中だけだ。
いつか答えがわかったら、『矢津』か『奴』と呼びたい。
これが、あんたの未来な訳?暗いね。
・・・。
ヤツは答えなかった。それは無視なのか、集中していて聞こえないだけなのか解らなかったけれど、その場では深く追求しなかった。
その絵は海沿いに立った工場とビルの山が背景。人影は無くて、人間より巨大な筈の工場達が捨てられている感じがした。
海底では貝が全て開いていた。でも中にあるのは身じゃなくて、血だまり。
血の色はリアルで、本物の血の様だった。絵の具として血を使うのも、ヤツなら、やりかねない。私は捨てられたビルより其方に目が行った。まぁ誰でもそうだろう。
一瞬映画のシーンが出てきた。タイトルは忘れてしまったけれど、一匹の動物の紳士が海に入っていって、眠っている牡蠣達に陸の自分の家に招待をする。その家では兎の召使いが待っていて、紳士と2人(否、正確には2匹か)で牡蠣を食べてしまおうという作戦だった。しかし、紳士は裏切り、召使いが台所に行っている間に牡蠣を全部食べてしまった。怒り心頭の兎はその後永遠に紳士を追いかけ回している・・・。
という映画だ。設定はメルヘンだが、話はなんともブラック。
この話をヤツにしたら、
へぇ・・・。
と珍しく興味を持ったようだった。
暫く私と由衣は、中間考査があるせいもあって、ヤツの画廊に行くのが延ばし延ばしになってしまっていた。
私はその状況に耐えられず、早くヤツの所に行きたいとしきりに由衣に言っていた。
しかし由衣はというと、
「えぇっ!?やめなよぉ。」
なんでと聞くと、
「だってぇ、あの人少し怖いじゃない。無愛想だしぃ。本当の名字じゃないかも知れないよ?そんな人と付き合うのやめなってぇ。」
由衣は多分、最近出来た彼氏に言われたのだろう。
そういう相手じゃなければ、由衣は考えを変えたりしないタイプだった。
元々好きで、告白された相手に言われれば、納得してしまうのも当然であろう。
確かにストイックな雰囲気といい、無駄口を叩かない男らしさといい、なかなか悪い男じゃなかった。そこそこ人気もあったし、私自身、正直に言えば少し気になっていた。
でもそんな事を言われるのは心外だ。ヤツは、彼が思っている程の人間でもないし、彼が考えている以上の人格の持ち主だと思う。少なくとも私が知る限りはそんな感じの男だ。
どうして会った事も無いヤツの事をそんな風に言われなくちゃいけないんだと、由衣の恋人に迫りたくなる。一度でも彼に感じた淡い心は消え去っていた。
「藍ぃ?どうしたのぉ?」
由衣は私が不機嫌になっているのに気付き、少し慌て出す。
彼女は天然で、ミーハーで、よく言えば、現実主義だ。熱しやすく、冷めやすい。自分に相手が興味なければ、自分もその場で相手への興味を失くす・・・そんな子だ。社交的で、話すのが得意で、脱色した髪にスベスベの白い肌を持つ可愛い今時の少女。
口下手で人見知りが激しく、友と呼べるのは数人の私と何故仲が良いかが、解らない。
「別にぃ、矢津が悪い人だとは思ってないんだけどぉ。何考えてるかわかんないし。」
「だから、あんまり深入りするのは・・・。」
由衣は決定的な間違いをしている。ヤツは多分何にも考えてないし、私はヤツに恋してるんじゃない。
「えっ・・・。」
そう指摘すると、由衣は意外そうな顔をした。私は由衣のこの顔を見ると、あぁ、私は世界中で独りぼっちなんだと、改めて実感させられる。
「じゃあ、どんな感情なの?早く会いたいっていうのは、好きなんじゃないの?」
そうか。由衣は間違ったんじゃない。由衣の考えの中に書かれている辞書には、
『会いたい=好き』になっているんだ。でもそれは絶対に違う。
じゃあ、どんな感情なの?
由衣がさっきした疑問が頭の中で反芻される。
私は、それがどのような感情なの?と言われると、答えようがない。好きな訳じゃない。でも、もの凄く会いたい。何故?それは多分ヤツが私と同じ罪の共有者だから。そんな事言ったら、由衣は混乱する。ヤツは失笑する。だから言わない。
そして私はヤツと同じ秘密を共有している。自分が『世界にただ1人の人間』という事。私は誰にも理解されない。理解されたくもない。お前の気持ちは良くわかるよ・・・。良くわかる?冗談じゃない。他人に人の気持ちがわかる筈がない。他人が他人に出来る事は同情と哀れみと憎しみと怒りと。そして、客観的真実を述べる事と。それだけだ。
私はそれを今から5年前、小学生の頃に知ってしまった。私はそんな冷たい心を持った少女。
多分大人達はそれを子供に必死に隠しているんだ。子供は大人になって知る。全てを。でももう充分乾いた心に、否、そんな事では動じない心になっているから、彼らは以後も普通に生きていける。そしてまた、自分の子供にその事実を隠し続ける。
それを私は汚れを知らない幼き頃に、そしてヤツは希望に満ちている若き頃に知ってしまった。私とヤツの『罪』と『秘密』だ。
・・・え?
自分はいつのまにかヤツの憎しみが何かに気付いていた。気付いたんじゃない。ヤツが無言で発していたSOSだったんだ。あれは。
「えっ、ちょっと藍!何処行くのぉ!」
後ろで叫ぶ由衣の声も耳に入らず、私は画廊の方角へ走り出した。
自意識過剰と言われても良い。私が由衣をかけがえのない人と感じたように、ヤツも私に感じていたんだ。
ヤツがあの時発した心からの願いに何故私は気付けなかったんだろう。それは私が全てを拒否していたから。私は『罪』を受け入れた。ヤツは『罪』を拒み、尚他人を信じようとした。だからヤツは私がこれがあんたの未来な訳?と聞いた時答えなかった。
そこで亀裂が生まれ、私は誰も届かなかったヤツの心を目の前で潰したんだ。
残酷。屈辱。後悔。
この3文字が私の頭の中でひしめき合い、駆けめぐる。
画廊についた。─否、画廊があった家のドアの前に。
硝子張りの窓とドアの向こうにはあれだけ無造作に置かれてあった百枚近くの絵がない。がらんとしている。ただ、夕日が画廊のあった部屋を照らすだけ。
まだ残っている物があった。イーゼルと、それに乗っている絵。
『青写真』。
でも、絵は未完成だった。
そして、白いキャンパスと彼が愛用した油絵の具とパレット。
気付いてやれなくてごめんね。
心の中でそうつぶやき、もう一度彼の絵のキャンパスに目を戻した。
彼が憎んだもの。
それは、5年前の自分。それを彼に教えた者。それだけの状況を創った者。そして、それを受け入れる大人達。
彼は私に愛おしさを覚えたと同時に、憎しみも覚えたんだ。白いキャンパスに目を落とす。
私が、青写真を完成させる。ヤツのために。
その場で筆を取った。
数日たっても、ヤツが何処に行ったかは解らなかった。近所の人は飄々とした彼に対して興味があったらしく、ヤツは何処ぞの御曹司である事がわかった。彼らは実家に帰ったのだろうと言っていたが、私はそうは思わなかった。
由衣はヤツの事などすっかり忘れ、恋人との最後の高校生活を楽しんでいるようで、ヤツも居なくなり、私が絵を描く事に専念していたせいか、由衣との会話はめっきり減った。
ある日、ヤツの捜索願が出ている事を風の噂で聞いた。私は不思議にも、悲しくも驚きもしなかった。反対にヤツらしいと思う。不意に現れ、不意に消え・・・。
ヤツの存在価値はあったのだろうかと問う人もいるかもしれないが、そんな事はない。
ヤツは、『ヤツ』だった。名前でもなく、悪態でもない。ヤツはヤツとしか、表現できない人物なのだ。
私は、ヤツの青写真と私の青写真を一緒に燃やした。油絵のせいか良く燃えた。
ふいに。海から風が吹いてきた。
あれ、藍じゃん。
ひっそりと、心の中で。
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